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永井 良三 教授(東京大学医学部循環器内科学)「医療とイノベーションについて」

永井 良三 教授永井 良三 教授 |プロフィール(2010年9月現在)詳しく知る

1974年 東京大学医学部卒業
1983年 米国バーモント大学留学
2003年 東京大学医学部附属病院 病院長
2009年 東京大学医学部附属病院 トランスレーショナルリサーチセンター センター長

対談内容

全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出し、社会に大きな変化を起こすことを「イノベーション」の定義とするならば、本日インタビューをさせていただく永井良三先生(東京大学医学部循環器内科学 教授)は数々のイノベーションを起こされた人物として、多くの方が名前を挙げる方でしょう。永井先生は、私が医師として研鑽をつみ始めたころより温かい目で応援してくださった恩師でもあります。本日は、「医療」と「イノベーション」をテーマに、永井教授にお話を伺いました。


医療はしばしば「成果」として語られ、イノベーションの対象と考えられています。しかし、注意が必要です。医療は原点であって、成果やイノベーションの観点だけで語ることはできません。社会も学術も政治も、人の営みから生まれます。医療も同様で、人の営みに伴う矛盾や危険性を抱えています。ここを理解すると、医療が最先端科学としてさらに意味を持ちます。 ヒポクラテスの考えに、このようなものがあります。「自然学者や哲学者は『人間は何からできているか』、『人間はどう生きるべきか』等、いろいろと言っている。しかし、それは医術を極めたときに初めてわかるものだ」。これは、高い慧眼です。これは、医療が、哲学や科学など諸々の基盤となるのだということを意味しており、大変印象深い言葉です。
非常に奥深い話で、考えさせられます。私も、大学にいたころにはこの思想の本質がわかっていなかったかもしれません。しかし今、在宅医療の現場で患者さん一人ひとりの家に入っていく経験、つまり人間の生活の営みの一部としての医療を実践する経験が、頭で理解していたこの思想を、私の血肉にしているのかもしれません。
永井 良三教授と対談02そうですね。実践するとすぐに気が付きますね。しかし、今の日本は必ずしもそうではありません。西欧は、歴史の中で基盤となる思想をじっくりと成熟させて、近代科学を形成しました。その後、西欧では近代科学が細分化していきましたが、丁度その頃に、日本は近代科学を導入しました。そのときはやむを得なかったのですが、日本はその後も、歴史の中で培われた科学の思想を十分に認識してこなかったように思います。これはいわば幹や根そしてそもそもの土壌の議論ですが、日本の科学は枝から議論し、実践を始めました。そして細分化された科学はタコつぼ化し、ひたすら前進しました。ここに今の医療が抱える問題の要因があったように思います。 幹や根、土壌がない枝同士が「果実として成果を摘み取る」といっても、そこにはいろいろな問題が派生します。さらに社会が発展して、大きなシステムになると、自分たちの存在が小さく見えてしまう。それが当事者の間に被害者意識生み、対立を深めることになりました。 したがってイノベーションといっても、それは目的ではなく、科学や医学が社会で果たす役割のひとこまに過ぎないということを十分理解する必要があります。混乱を避けるためにも、武藤先生に頑張っていただきたい。
ありがとうございます。肝に銘じます。 私たちの世界から見えてくるものだけでなく、社会の合意や異業種の理解、あるいは「そもそも科学とは」「社会制度とは」といったこと考えさせる上で、医療の持つ業の深さを認識するということを、真摯に深く考えてまいります。
先生、誤解を恐れずに申し上げると、病院の医療は、医療者側がある意味いろいろな制限を与えてやっているように思います。
そう、社会と切り離してということですね。聖域を作ってね。
武藤真祐はい。しかし私たちは逆です。患者さん一人ひとりの生活、人間の営みがあって、そして医療があるのです。ここで感じることが、先生のおっしゃる土壌の醸成につながるでしょうか。
そのとおりです。在宅医療は、今までの枝葉の近代科学の延長としての実践ではないはずですよ。むしろ、枝葉を支える土壌の形成としてもやっていかなくてはならない。つまり両方の活動をしないといけません。 大学病院の医療はまさに枝葉の延長として、あまり社会に踏み込まずに枝葉をいかに発展させるか、という目的での運営されてきました。しかし、いよいよその果実が社会のため、患者さんひとひとりのためとなると、そうはいかない。一気に矛盾が膨らみ、枝葉だけでは立っていられなくなりました。 ここで気が付くのは、医学思想の根源なのです。武藤先生、わかるでしょう?
今は、先生のおっしゃることがよくわかります。現在の経験が、私を育ててくれました。
永井 良三教授と対談01そうですね、現場の実からわかることでね。
私は、臨床医学が再構築する時代に来ていると思います。我々は枝葉から始めました。発展成長を目指してきたけれども、気が付いてみれば、共通の幹や根、土壌がないままであることに気づいてきたわけです。 今のモデルでさらに科学や医学を発展させるということはどういうことなのか、ときどき考えてみる必要があります。
先生、改めて、我々がやっている人間の営みに寄り添う医療、人間の営みの一部として営まれる在宅医療の意味合いが先生によって解釈されました。開眼した気持ちです。
武藤先生、私は先生にお願いしたいのは、実践から叡智を生んでいただきたいことです。 西欧の思想では古来、実践は無知なものであり、理論は高貴なものとされてきました。ギリシャ時代には奴隷制や貴族制があったことと関係があります。私は理論と実践は上下関係ではなく、相互の循環であると考えています。理論が上流、実践が下流ではなく、実践から理論が生まれることもあります。それぞれの知を深めつつ、全体の連携と統合を図るのが叡智だと思います。しかし頑張るだけではなく、データは必要ですね。
この議論を理解するには、古代ギリシャ時代からの知性と無知の議論の歴史を知る必要があります。永井先生、解説いただけますか。
人間の営みは偶然に支配され、無知の世界である。一方、天体の世界は、神に支配され法則性と必然性のある世界であり、それが知性である。これが中世ヨーロッパの考え方です。 ところが、13世紀頃から「人間の営みにも神の意図が働いている」、つまり知性があると考えられるようになりました。さらに統計が進歩すると、人間の営み(=不確実な偶然の世界)にも、法則性があるということがわかってきたのです。
正規分布の発見などがよい例です。統計学者はそこに、神の意図を感じたのでしょう。 ところが人間が明らかにした自然の法則性について「神のものか、人間のものか」といった議論が長くありました。ルネサンス期には、その潮流は段々「人のもの」となってきました。「神はゼンマイを巻いて創造したが、そのあとは人間が管理する」という考えになってきたわけです。 そうして統計学が発達してきました。当初、統計学による法則性は必ずしも認められていなかったのですが、量子力学で代表されるように、「むしろ偶然や統計的な法則が基盤にあって、必然性はその上に成立している」という考え方になってきました。そうなると、人間の営みも科学の対象になるわけです。これが20世紀はじめから現在に至る考え方で、21世紀に生きる私たちはそういった目線で、人間の営みを見なくてはなりません。
つまり、人間の営みを対象とする研究を社会の前面に位置づけるべきで、そこから生まれた科学はもっと高く評価されるべきでしょう。実践が低くみられると、現場が苦労します。がんばっても、「非理知的なことが重視されている」などという批判を受けてしまう可能性があります。 社会は、科学なしには成り立ちません。最先端科学としての高齢者医療の実践があってもよいでしょう。武藤先生に期待していますので、がんばってください。
永井先生、貴重な示唆をありがとうございます。本日、私たちの社会での役割に、大きな意味を与えてくださいました。ご期待にたがわぬよう、誠心誠意尽力します。 本日は誠にありがとうございました。

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武藤 真祐(聞き手)
武藤 真祐|医療法人社団鉄祐会 祐ホームクリニック 理事長 詳しく知る

1990年 開成高校卒業
1996年 東京大学医学部卒業
2002年 東京大学大学院医学系研究科博士課程修了
2010年 祐ホームクリニック開設
2011年 祐ホームクリニック石巻開設
内閣官房高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部 医療分野の取組みに関するタスクフォース構成員
みやぎ医療福祉情報ネットワーク協議会 システム構築委員会 委員
石巻市医療・介護・福祉・くらしワーキンググループ委員
経済産業省地域新成長産業創出促進事業ソーシャルビジネス推進研究会委員等公職を歴任

永井 良三教授と武藤真祐

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